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民明書房的プロレス用語解説

1 :お前名無しだろ:04/05/14 13:17 ID:MvMvNHkc
かけ

152 ::04/06/02 11:47 ID:W3F1zLtZ
雄尾喪離  おおもり

今は昔、大和を善弐知国と神弐知国が支配していた時代、
善弐知の将に雄尾喪離という野心の塊の様な男がいた。

その後、善弐知内で内紛が起き、善弐知一の武勇を持つ未鎖倭(みさわ)が離反し、
野亞を建国した。
未鎖倭は離反する際、多数の兵を共にし、
中には戦働きを期待できない老兵を多く含んでいたともいわれ、
その兵の中に雄尾喪離もいたとある。

しかし雄尾喪離は未鎖倭からの待遇に不満を感じ、
ついに一人下野し、海を渡ってしまう。

幾月後、志半ばで帰国した雄尾喪利にはすでに居場所は残っていなかった。

駄武竜辞獲亥、善弐知と食い扶持を求め彷徨った尾雄喪離であるが、
この頃になるともうはっきりとした文献も残っておらず、これ以降の足跡を辿るのは困難を極める。

現代においても、身の程をわきまえず欲をかき失敗する人が多い事象を「おおもり」というのは上記の古事に由来する。
しかしながら、「おおもり」が主に食事関係にしか残っていないのは悲しい事でもある。


類義語・券酢毛(けんすけ)
反義語・拳蔵(けんぞう)・蛇地狸(たじり)


民明書房刊 「善弐知部隊 聖鬼軍」より



153 :お前名無しだろ:04/06/02 17:34 ID:ZTujimGP
埜亜経流酢倶楽部(ノアヘルスクラブ)

古代中国、戦乱の時代に屈指の池沼として
名高い埜亜の秋山(シュウザン)将軍が
考案したといわれる人材活用法
役に立たない中堅の武将を3人ほど用意し
倶楽部を結成させ、経流(血の流れ)に
酢を流し込み奮起を促す。

ただ、秋山将軍がしょっぱく、3人がすっぱく
なったのは大誤算ともいえよう。

民明書房刊 「埜亜 誤算記」より

154 :お前名無しだろ:04/06/02 18:59 ID:PLeiSaEw
みんなすごいな。
つまらんのが一つもない。
特に>>152は唸った。

155 ::04/06/02 21:14 ID:W3F1zLtZ
>>154
ありがとうございます。
感想頂けて嬉しいです。

156 :お前名無しだろ:04/06/03 21:30 ID:XJi54Fhv
餓鬼腹賢人(ガキハラケンジン)
 戦国時代に出現したといわれる妖怪。
戦のとき、どこからともなく現れ、次々と誰もが納得する優れた作戦を立案するが、
いざ本番になると誤算続きで、この妖怪がついた勢力は必ず滅亡したといわれる。
大名は、戦いに敗れてまさに腹を切らんとするその瞬間に、次々に献策をした男の
腹が、餓鬼のように膨らんでいたことに気付くことから餓鬼腹賢人と称される。
ちなみに垣原賢人(かきはらまさひと)選手の所属した団体が次々と消滅したこととは
今のところ無関係と思われる。
民明書房刊 「戦国秘話」より

157 :ブライアン五月 ◆DietT3mf1M :04/06/04 00:20 ID:tQ9ROc5X
最近、とくに大作が揃ってるねえ。
まじ尊敬。

158 :お前名無しだろ:04/06/04 10:04 ID:ITH50m2Y
兎賄(うわい)

中国明の時代、節度使田仁川(でん・じんせん)将軍が
政治を取り仕切っていた頃に行なわれていた、特徴的な
賄賂の方式。それが兎賄である。
当時、政治の大部分をその手中に収めていた田将軍であったが、
唯一財政にだけは触ることができなかった。
というのも、前王の頃からの忠臣である中邨祥(ちゅう・とんしょう)が
財政の一切を取り仕切り、奸臣である田に付け入る隙を
与えていなかったからである。
その為、田将軍への賄賂として送られた金品も、中の手によって
田将軍の手に渡る事なくとどめられ、田将軍は私腹を肥やす
事が叶わなかったという。

そこで田将軍は一計を案じ、当時乱獲によって稀少となっていたある種の兎の皮を
懇意の商人などに大量に贈らせ、これを市場へ卸す事によって金と換えた。
中は当然大量の兎の毛皮をいぶかしんだが、「我が私軍の防寒の衣とするものである」と
抗弁されては問いただす事もできず、どうしようもなかったという。

これが兎の衣を用いての賄賂、すなわち兎賄である。

その後田将軍は私財にて私兵を強化し、ついには朝廷に反旗を翻したが、失敗。
末路に関しては諸説分かれるが、海を渡り、日本で嘆きながら余生を過ごしたとの説が有力である。

現代のプロレス界において、兎賄と音を同じくする上井なる人物が、
選手をK-1への供物のごとく扱っている事は、奇妙なる一致といえよう。

民明書房刊 『アルティメットクラッシュ、あっというまクラッシュ』

159 :お前名無しだろ:04/06/05 00:39 ID:MckUYFdG
>>158は完全に知性の無駄遣い

160 :お前名無しだろ:04/06/05 00:40 ID:MckUYFdG
ノアだけはガチ

古来からノアはガチだった。



161 :お前名無しだろ:04/06/05 09:01 ID:kcdsZGUU
ガチだとはなあ。

162 :お前名無しだろ:04/06/06 11:19 ID:k846vcEC
あげとくよ

163 :お前名無しだろ:04/06/06 13:39 ID:89TLcJuJ
左民具(さみんぐ)

秦の時代、始皇帝が中国を統一すると、皇帝の権威誇示のため、大規模な土木
工事が次々と行なわれた。そのため税金は跳ね上がり、工事に動員されるため
の民衆の負担も異常な水準に達した。民衆は、さまざまな手段で徴用を逃れよ
うとしたが、その中で、河北省是夫羅(ぜぶら)の村人は、白黒縦縞の布を身
につけて林の中に逃げ込み、徴税吏の目をくらますことを常としていた。その
効果は絶大で、この布は、「民を左(たす)ける道具」の意味で、「左民具」
と呼ばれた。当然、皇帝は左民具の使用を禁じたが、時の武術家がこれに目を
付けぬはずはなく、相手の目をくらます秘技として、多くの流派が左民具を使
用した。やがて元来の意味は忘れられ、広く敵の視覚に損害を加える手段が左
民具と呼ばれるようになり、この言葉はマルコ・ポーロによってヨーロッパに
まで伝わったのである。
こんにち、プロレス技の目潰しが「サミング」と呼ばれるのは、もちろんこの
「左民具」の転用である。また、サミングを得意技とするレスラーが白黒縦縞
のタイツを着用するのが、この故事に由来していることは言うまでもない。

民明書房刊『徴税暗闘史』より

164 :お前名無しだろ:04/06/06 14:25 ID:TM+qMiyr
>>163
いいね。よく考えたら、民明書房って、こんな風に武術の歴史のことを書く
ものだったんだよね。

165 :お前名無しだろ:04/06/06 19:51 ID:vWOTifhZ
ゼブラ小川

166 :お前名無しだろ:04/06/07 08:37 ID:Kh9a+CBb
背吉句(はいきっく)

中国、宋の時代、廂軍(囚人を使役する雑役部隊)ではさまざまの私刑が行な
われていたが、その中に、恨みのある相手を思うさま蹴りまくるという、素朴
ながら残酷な私刑があった。そのさい、相手の頭を蹴りながら、呪いの言葉を
投げかけるのが通例であった。この呪いの言葉は「背吉句」(はいきっく)と
呼ばれた。「吉に背(そむ)いた句」、すなわち不吉な呪いの文句、の意であ
る。やがてモンゴル族が中原を支配したとき、通訳の手違いから、相手の頭を
蹴ることを「背吉句」と呼ぶのだと誤解してしまった。そしてこの言葉は、モ
ンゴル帝国の西漸とともに、ヨーロッパにまで伝わったのである。
こんにち、格闘技において上段蹴りが「ハイキック」と呼ばれるのは、もちろ
ん、この「背吉句」の誤用に基づくものである。また、蹴りを出すときに「シ
ュッ」「シャァッ」「でぇぇぃ」などの呪文を唱えるのが、「背吉句」の正し
い伝統を汲むものであることは言うまでもない。

民明書房刊『東西私刑残酷史』より

167 :お前名無しだろ:04/06/07 12:29 ID:wSHkRUhq
ハシフカーンきぼんぬ

168 :お前名無しだろ:04/06/07 21:19 ID:mNUFzkaY
御前裸男駄世(おまえらおとこだよ)
唐の時代、大変に徳の高いと評判だった多寡堕(たかだ)という僧侶が噂を聞いた
帝に召し出され、今の世をどう思うかと聞かれたところ、
「御前ではございますが、例えれば全裸の男が局部をぶらぶらさせつつ、往来を
闊歩するような、乱れた駄目な世の中になってしまいました。」と言ったところ
帝の逆鱗に触れ、その高僧(タカダ)は首を刎ねられてしまった。しかし、その
話が一般に流布すると、高僧の天子をも怖れぬ物言いが評判となり、やがて自ら
をかえりみず、立派な行動を取った人のことを指して「御前裸男駄世」
(おまえらおとこだよ)というようになったという。なお、この高僧・多寡堕と
プライド統括本部長との相関関係は不明である。
民明書房刊 ハシフ・カーン著「ヒトさんはハーフダイ」より

169 :お前名無しだろ:04/06/08 00:57 ID:oiSc7vZR
>>166
呪文ワラタ

>>168
お前はいい意味でバカだよ

170 :お前名無しだろ:04/06/08 01:18 ID:PTgJO8Gq
職人様方、心からお願いします。

ハシフ・カーン
稲妻劣具羅李阿斗
不痴


171 :お前名無しだろ:04/06/08 01:48 ID:eQm/43yw
>>167
ハシフ・汗(はしふかーん)

13世紀、ユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国の王、
成吉思汗(ジンギスカン)には5人の子供がいた。その一人がハシフ汗である。
蛮勇を誇り、大飯喰らいで汗っかき、上の言う事を聞かないなどから父親の成吉思汗には嫌われていたが、
部下や領民からの人気は絶大で、9つの戦争で大きな戦功を立てたといわれている。
しかし、遠征先で小川の水を飲んだ途端に死亡してしまい、多くの領民は悲しみに暮れた。
一説にはハシフ汗の人気を妬んだ父成吉思汗の仕業ではないかと言われている。
その後、ハシフ汗は0番目の息子にされ無かった事にされたが、
ハシフ汗を慕う領民達は1番目の子としてハシフ・汗を崇め奉った。
尚、プロレスラー橋本真也氏が米国遠征時にハシフ・カーンを名乗った事や、
自身が立ち上げた団体の名前がZERO-ONE(01)であった事などは奇妙な一致と言えよう。

民明書房「トリビアの湖」

172 :お前名無しだろ:04/06/08 01:54 ID:PTgJO8Gq
>>171
ありがとうございます!
これからもよしなに、よしなに!

遠慮なさらず、どんどんアゲてくださいませ!

173 :お前名無しだろ:04/06/08 07:14 ID:akgff28P
>>171 小川の水を飲んだ途端に死亡
超ウケチマッタヨ^^;

174 :お前名無しだろ:04/06/08 11:01 ID:TSplKU9r
秀戟七番勝負! の巻
「な、なんじゃありゃ〜! 見るからに恐ろしげな奴らがぞろぞろ出てくるぞ!」
「ひい、ふう、みい……あわせて七人おるぞ!」
「フフフ、方舟塾のカス諸君、よくぞここまで生き延びてきた。しかし浮かれてい
 られるのも今のうちだ。秀戟七番勝負、見事受けてみるか?!」
「な、なに?! 秀戟七番勝負だと?!」「知っているのか、ゼブラ?」
「うむ、まさかこの目で見ることになろうとは……」

 秀戟七番勝負(しゅうげきななばんしょうぶ)
  古来、禅日寺では修行僧に、七人の強敵に立ち向かうという試練を与えていた。
  ある時、秀戟(しゅうげき)という生意気な若者が、「俺の考える七番勝負は
  あの人の七番勝負とは違う」と言い出して、より過激な七番勝負を行なった。
  その方法とは、自ら遅効性の毒を飲み、敵一人を倒すごとに解毒剤七分の一を
  飲むもので、もし一人でも倒し損なったら、毒が回って死んでしまうというわ
  めて苛酷なものであった。
  秀戟は苦闘の末に七人の敵を倒したが、戦いに時間がかかりすぎ、最後の解毒
  剤を飲む前に毒が回ってもだえ苦しみながら地面に倒れ、自ら倒した七人の横
  に、八人目として横たわって亡くなったという。当然、この残酷な勝負は時の
  皇帝によって禁じられ、長らくその実態を知る者はなかった。
  なお、現在、苦しみにもだえることを七転八倒と言うのは、この秀戟の故事に
  由来する。  民明書房刊『毒の花は夜開く』より

「何だか知らねえが、俺の出番だぜ!」「うるせ〜、俺の出番じゃ!」
「この勝負、俺が出る!」「お、お前は、KENTA〜〜〜〜!」
(プロレス用語解説じゃなくなったような……)

175 :174:04/06/08 11:14 ID:TSplKU9r
間違えた
×わめて>○きわめて

176 :お前名無しだろ:04/06/08 11:20 ID:hF5Y0adK
>>171
> しかし、遠征先で小川の水を飲んだ途端に死亡してしまい

うまい!


177 :お前名無しだろ:04/06/08 21:44 ID:z8LSan1Z
>>174みたいなのもいいな

178 :お前名無しだろ:04/06/08 22:48 ID:pn+EkRvI
なんか名前が超最凶プロレスファン列伝みたいだなw


179 :お前名無しだろ:04/06/09 21:13 ID:C9jLkB+o
周風呂(しゅうぷろ)

古代中国には、湯につかり体を清潔にするという習慣が
なかったと言われている。
しかし、あまりにも人々の体臭がきつくなったことにより、
周の時代、国を支配していた他山(たあざん)が、沐浴せよとの
命令を出した。しかし、当時の周は、日照り続きで飲み水にも
事欠くありさまであった。
他山はそれでも沐浴令を発し続けたため、反乱が起こり、
ついに他山は城と共に炎上し果てた。
その後十年ほどの歳月が流れ、王が左糖(さとう)に替わっても、
水不足は相変わらずであった。
しかし、獅子が多く生息していたことから「獅子倉(ししくら)」
と呼ばれていた岩場から、温水が出ているのが発見される。
人々は争ってこの岩場に殺到した。この周の時代から始まった沐浴の週刊が
「周風呂」であるが、現在も当時の末裔たちが週に一度、この獅子倉を訪れ
「周風呂」に入る。入浴前には必ず「冠堂鎖畝手余(かんどうさせてよ)」と
いう、当時からの呪文が必要なのは言うまでもない。
なお、現在の「週プロ」と「周風呂」に因果関係はなく、偶然の一致である
というのが定説となっている。

民明書房刊「密着ドキュメント/4・4鈴木みのるはどこに」の前文より抜粋


180 :お前名無しだろ:04/06/09 21:29 ID:WN3qFDTd
怒羅琿巣凸府(ドラゴンストップ) 時は三国志時代までさかのぼる。ときの大将軍・曹操の側近・典亥と許猪が喧嘩したのを曹操が寵愛した怒乱琿(ドランゴン)が仲裁したのが始まり。現在では某社長が[塩マグマ対ポーク]の試合で行なったのが有名である。 民明書房刊「ドングリ君の三国志」ヨリ

181 :お前名無しだろ:04/06/11 08:56 ID:ZAjZRHfa
age

182 :お前名無しだろ:04/06/11 22:31 ID:4k1ti/pr
足負(たっぷ)
負けるに足る、から転じて一人前になったことを意味する。ある中国の少数騎馬
民族に伝えられたイニシエーション(通過儀礼)。
最強を誇った多寡駄(たかだ)という族長が、卑苦損(ひくそん)という男に
自分の跡目を継ぐよう言った所、偉大な族長の後を継ぐ事に卑苦損の腰が引けた
様子を見て取った多寡駄が、素手での決闘を申し込んだ。
組み打ち、寝技ともに多寡駄が圧倒していたが、苦し紛れに卑苦損が馬乗りから
十字固めを極めると、多寡駄は手で地面を打ち、すぐに降参してしまった。
不審に思った卑苦損が「なぜあんなにあっさりと降参したのですか」と聞くと、
多寡駄は言った。「卑苦損よ。確かにあの十字は全く決まっていなかった。
しかし、わし以外のものであれば間違いなく腕が折れていたはず。わしはお前の
その技量を見こんで負けるに足るとし、降参したのよ。」
卑苦損は偉大な族長の懐の深さ、そして自分のことを「負けるに足る」と認めて
くれたことに感動し、涙を流しながら次期族長となることを承諾したという。
なお、現代の足負名人・高田延彦氏とこの族長との相関関係は未だ不明とされている。
民明書房刊「こんなにやせてイイかしら・ヤマト編」より



183 :お前名無しだろ:04/06/13 23:38 ID:FyTNVEia
>>144
ウケタ

184 :お前名無しだろ:04/06/16 16:01 ID:2wfiS5lP
浮上

185 :お前名無しだろ:04/06/21 03:56 ID:bXHlJ00P
保守

186 :お前名無しだろ:04/06/23 19:00 ID:L6SZhtas
劉猪 按沌(あんとん)

一般では、劉備玄徳の子供は劉禅阿斗(りゅう・ぜん・あと)一人と言うのが定説になっているが、
実はもう一人、闇に葬られた子供がいた。名を劉猪按沌(りゅう・ちょ・あんとん)と言う。
古来より漢民族は、生まれた子供の人相でその子の一生を占っていた。

最も忌み嫌われた相が、 『長大なアゴ』である。
『長大なアゴを持つ相は信を欠く。人の下に付けば上を裏切り、部下を持てば、己の欲望の
 為に部下を裏切る。又、怪しげな術を用い大衆を騙す輩もこの相の特徴である』とされていた。

按沌はまさしく『長大なアゴ』をもってこの世に生を受けたのであった。困り果てた玄徳は、
表向きは死産と言うことにし、案沌を秘密裏に育てた。この事実を知らされたのは、関羽・張飛・
趙雲の3名と甘婦人・び婦人だけであった。正史・演義三国志ともにこの事実はタブーとして記載
されなかったのだ。

有名な『長坂波の戦い』の際、趙雲が甘夫人と阿斗を救い出し、足を怪我した び婦人は井戸へ身を
投じたと伝えられているが、真実はこれだけではなかった。
趙雲は玄徳軍の武将の中でも『忠』の人。その人柄ゆえ『信に欠く長大なアゴ』を持つ按沌に対し、
(今後主君玄徳に災いをもたらすに違いない。時機を見て始末・・・)と日頃考えていたのだった。
び婦人が井戸へ身を投じた後、残されたのは按沌と趙雲だけであった。誰も見ていない。
「この期をのがしては!」決心した趙雲は按沌を井戸に放り込んでしまった。
玄徳には「案沌の君は流れ矢にあたり御落命あそばされました」と報告し玄徳も追及はしなかった。
しかし井戸に放り込まれた按沌はその長大なアゴが引っかかり一命を取り留めたのであった。

成人してからは、軍隊に所属したり、自ら軍を立ち上げたりしていたが、占いのごとく『信に欠く』
所業の連続であったことは言うまでも無い。
又、果し合いの際も相手の後頭部から延髄にかけて、蹴りがあたってないにも拘らず相手が倒れ悶絶
する妖術や、己の都合に合わせ時間を遅らせたり速めたりする妖術を多用し民衆を誑かしたという。
20世紀のプロレスラー、A猪木氏と共通点が多く指摘されているが、その関係は明らかでない。

民明書房刊「裏三国志 あんとんはうそつき」

187 :お前名無しだろ:04/06/24 08:56 ID:Amur0whb
>>168
『自らをかえりみず、立派な行動を取った人のことを指して「御前裸男駄世」
(おまえらおとこだよ)というようになったという。』

胸に刻み込まれました。上げさせていただきます

188 :お前名無しだろ:04/06/27 02:47 ID:PallE2bl
age

189 :ブライアン五月 ◆DietT3mf1M :04/07/01 12:29 ID:8QGSNHRY
上芸

190 :お前名無しだろ:04/07/01 22:50 ID:pjLkTZ/2
ブライアンさん、偽物糞ぴろぴととのバトルお疲れ様でした。

191 :ブライアン五月 ◆DietT3mf1M :04/07/01 23:52 ID:8QGSNHRY
>>190
そんな、はは^^;
応援してくれてた方でしょうか?
ありがとうございました。

これからは呼び捨てにしてください^^

192 :お前名無しだろ:04/07/08 15:48 ID:DCbtOIri
age

193 :お前名無しだろ:04/07/08 16:44 ID:QkwRc8Aw
>>1

キュ〜ンキュ〜ン×2

わた〜し〜の彼は♪

194 :お前名無しだろ:04/07/21 03:11 ID:e60kVqUt
age

195 :お前名無しだろ:04/07/26 22:26 ID:OHP2yly9
覇和威王(ハワイおう)

戦国の世、佐々木健介という一人の若武者がいた、
新日藩にて生を受けるも幼くして両親を戦で亡くし、長州将軍に養子として引き取られる。
彼の指導により健介は、羅履悪刀(らりあとう)と呼ばれる剣技を習得した。
やがて健介は将軍となり、名家であった北斗家の一人娘、晶と婚姻を結ぶこととなる。
その際、北斗家に伝わる名刀「脳斬雷斗」(のうざんらいと)を受け継ぎ、数々の戦で武功を挙げた。
しかし、彼は猪突猛進に攻めるか、逃げることしかできなかったことから、当時の軍師、西村治朗には
「その戦ぶり、潮のごとし」と評された。

やがて時は過ぎ、国を揺るがす大事件が起きた。長州将軍の反乱である。 各藩から優れた武将を引き抜く大規模なものであり、健介も参加した。
だが、猛将ばかりで軍師がいなく、民を無視した政治を行い、その上領地に害鳥非路死が繁殖したことでその年は凶作となり 多くの将軍が脱北し、軍は崩壊した。
そんな中健介もまた俸禄をもらえなかったことで長州を見捨て、残党の一部を率いて朝廷に攻め込む。
しかし時の大将軍永田裕志郎に敗れ、妻子とわずかな家来とともに船に乗り込み、海を渡った。

数日間もの漂流の果てに、健介たちはとある島にたどり着き、その地の原住民と交戦する。少数だが精鋭であり、
優れた武具を持っていた健介軍と、いまだ石器を使っている原住民とでは勝負にならず、原住民の王は健介に屈服した。
その後健介が新たな王となり、原住民達を鍛え上げ、妻の晶が良政を行ったことで島の力は強大なものとなり、
ついに、健介は軍を率いて、再度日本へ侵攻することとなる。上陸の際臣従を申し入れてきた若武者、中島勝之彦や、
軍師としても優れた手腕を発揮した晶の力により、健介は大将軍、天山広吉を激闘の末に破った。
その後、さらなる外敵である慶湾国の歩武殺布(ぼぶさつふ)に敗れるまでの間、短いながらも王位につき、その名を轟かせた。
彼はのちに覇和威王(和を制覇するほどの威をもった王)と呼ばれ、彼が力をつけた島は、覇和威島と呼ばれるようになった。
なお、覇和威島は現在のハワイであるとされているが、証拠は見つかっておらず未だ不明である。

民明書房刊「新訂まんが日本の歴史 長州の反乱と覇和威王の台頭」より

196 :お前名無しだろ:04/07/29 00:11 ID:2/oSIMc7
age

197 :お前名無しだろ:04/07/29 04:29 ID:pdqvn0Ne
良スレage

198 :お前名無しだろ:04/07/29 16:09 ID:eEHsuNUu
怒呂布蹴撃(ドロップキック)

中国は後漢末期、名士エン紹を始めとした連合軍と、まだ幼い帝を擁した暴君董卓の軍とが激突した。
後の世に言う虎狼関の戦いである。
その戦の中、董卓の養子で史上最強の武将といわれた呂布は、敵将を次々と討ち取り、連合軍を震え上がらせていた。
しかしそこに、一人の大男が立ち塞がった、当時はまだ公孫讃の客将であった劉備の義弟、張飛である。
二人の武力はほぼ互角だったが、これまでの戦いでいくらか消耗していた呂布は、張飛の攻撃を受けきれず、落馬してしまう。
これを機に張飛は止めを刺そうと斬撃を加えようとした、しかし、人生で初めて落馬させられた呂布は激怒し、本能のままに跳躍してそれをかわした。
そして驚いた張飛の体に両足で蹴りを食らわせ、そのまま回転して再騎乗し、武器を構えなおすと、一騎打ちを再開したのだった。
その後張飛の義兄弟、劉備と関羽の介入によって呂布は撤退するが、二人の一騎打ちは両軍の兵の度肝を抜いた。

その後、呂布は董卓を裏切り殺したが、曹操との戦に敗れ、絞首刑となってしまう。
しかし、二人の戦い、特に呂布が放った蹴りは怒呂布蹴撃として劉備軍の間で伝説となり、蜀の地に伝わった。
時が流れ、怒呂布蹴撃は後世の拳法家達によって改良が加えられ、下段への攻撃を回避しつつ上段に強力な攻撃を加える技として各地に広まった。
そしてそれはマルコ・ポーロによってヨーロッパに伝えられ、怒呂布蹴撃⇒ドリョフキック⇒ドロップキックと呼ばれるようになった。

民明書房刊「ドロップキック〜腕を折らないために〜」より

199 :お前名無しだろ:04/07/31 12:58 ID:gt4xvzva
全く俺達は恐ろしい大将を持ったもんだぜ

200 :お前名無しだろ:04/08/04 16:46 ID:2IZQuAJG
age

201 :お前名無しだろ:04/08/04 22:43 ID:FGlLjzvK
age

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read.cgi ver 05.04.02 2018/11/22 Walang Kapalit ★
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